ネメシス




/あるいはひとつの結末/



 血の海だった。

 床を黒く染める夥しい量の血。生暖かいその香りだけで酔ってしまいそう。

 身体にも付着しているそれは返り血だった。

 ひどく現実感がない。かといって夢を見ているみたいだというわけでもない。

 成すべきことを成しているという安心感にも似た奇妙な感覚が、胸中にあった。

 罪人は法によってすべからく裁かれるべきだが、もしそれが叶わないなら――自らの手を汚すことも厭わない。

 これは天罰だ。

 罰は誰かが執行せねばならない。

 それがたまたま自分だったというだけのこと。

 そう、それだけの話――――







 1/



 地下墓地を探してみよう。

 そう提案したのはエジカという名の少年だった。彼の幼なじみで一歳年下の少女シサラの猫を探している最中のことである。もちろん彼女は怖がって反対したが、

『じゃあ行ってみるだけ』

 との言葉を信用してエジカの後をついていった。相当のお人好しであろう。

 数分後、二人は町の外れにある地下墓地への入り口の前まで来ていた。

 四角く切り取られた闇は何でも飲み込んでしまう怪物の口のよう。覗き込む者には原初の恐怖を与える。

 開かれた口からは水と土の芳香が漂いだし、秋の冷たい風に吹かれてはまた消えてゆく。その不気味さ故に二人はしばらくの間、言葉を失って立ちつくしていた。

「入ってみようか」

 先に口を開いたのはエジカだった。広場に遊びにでも行こうかというくらいの気軽な口調だったので、シサラはすぐに意味が飲み込めず、言われたことをもう一度思い返してようやくぶるぶると首を横に振った。

「だ、だめよっ、そんなこと。パパが入るなって言ってたし暗いし怖いし、幽霊なんか出そうだし……とにかくだめ!」

 一気にまくしたてると、シサラはもう我慢できないとばかりに回れ右をしてその場を離れようとするが、そこを引き止められた。

「シサラ、君の猫は町のほうにはいなかった。だとすると、ここに迷い込んだとは考えられないかな?」

 まっとうな論理に聞こえなくもないが、町には猫一匹が隠れる場所くらいいくらでもある。おそらく彼は、捜し物を口実に地下を探検しようと考えているのだろう。道連れにしないでほしいとシサラは思った。

「それはそうかもしれないけど……でも怖いものは怖いの!」

「怖いって迷って出られなくなること? それとも幽霊が出るとでも思ってるの?」

 そんなわけないだろう、とエジカは笑うが、彼が入ろうと言った場所はとんでもない曰く付きなのだ。

 二人の住むサリズエという町の地下には、古い時代において迫害を受けた宗教者の墓が今なお残っている。そんな場所に怨恨が満ちていないわけがなく、幽霊はもとより死霊悪霊の類まで居着いていそうだ。

 迫害から逃れるために通路の開通と封鎖が繰り返され、地下水道ともつながっているらしい。そこはまさに地下に横たわる迷宮と化している。

 幽霊とかその辺りを抜きにして現実的に考えてみても、一度迷ったら出られない公算のほうが高い。そのこともあって町の住人たちは過去の怨念漂うその場所を忌み地とし、立ち入らない習わしにしていた。

「……どっちもよ。ねえ、本当にここ探さなきゃいけないの? もう一度町のほうを探してみる気はないわけ?」

「ないよ」

 エジカは断言した。

「なあに、シサラの心配は杞憂さ。僕は用意周到がモットーだからね、こんなものを持ってきてある」

 エジカは懐から淡い色合いの毛糸玉と、使いかけのろうそくが刺さった燭台を取り出した。

「これは父さんから教わった方法なんだけどね……この糸を入り口に結びつけておいて、帰るときは糸を巻き取りながら行けば迷うことはない。そしてこっちのろうそく立てはね、すごく特別なものなんだよ」

 エジカはそこで説明を区切った。どうしてそこで止めるのかシサラは不思議に思ったが、彼は何かを促すように視線を投げかけてくるだけで、黙っていてもいっこうに話が進みそうにない。そこでシサラは思い至った。

「……ど、どういう風に特別なの?」

「いい質問だね」

 エジカが満足そうに言った。

「実にいい質問だ。ではこれの何が特別なのかを君に特別にお見せしよう。よく見ておくんだ」

 毛糸玉をシサラに渡すと彼は燭台を持ち上げ、まるで奇術師がやるような仕草で着物の袖の影に隠した。シサラは次の動作を見逃さないよう、じっと手元を観察している。

 そんな彼女の視線を意識した素振りで、エジカは袖の内側にふーっと息を吹きかけ……何かがうまくいったのだろう、口の端をあやしく吊り上げてみせる。

「さあ、ごらん」

 そう言って袖の影から取り出されたろうそくには、火が灯っていた。ちろちろと燃える小さな火は今にも消えそうで、どうも心許ない。てっきり普通のろうそくとは明るさが段違い、と来るかと思っていたシサラにとってこれはいささか肩すかしであった。

「……どこが特別なわけ? フツーにしか見えないけど」

「甘い……甘いすぎる。見た目だけで判断しているようじゃ駄目だよ。確かに明るさはまだ少し足りないかもしれない。けど、この燭台の真価は別のところにある。それはね……“火が決して消えない”ことなんだ」

「決して……消えない?」

「そう、消えない。ろうそくを外したり、燃え尽きたりしない限りはね」

 これで灯りの心配はいらないだろう、とエジカは胸を張る。

 シサラは以前にも彼から同様のもの――つまり、不思議な力を持つ品の数々を見せてもらったことがあった。

 たいていの物は彼が言った通りの効能を示したが、中にはひどい失敗をする粗悪品も混じっていた。前者は煉金師である彼の父親が創った物で、後者はその父から教わってエジカが自作したものだったらしい。

 今回もその例に漏れないだろうと思い、シサラはからかい半分で言った。

「お父さんの創った物なら心配いらなそうね」

「……ああ、仰るとおり父さんの作だから安心してついて来ればいいさ」 

 ちょっと拗ねたみたいだった。しかしすぐさま気を取り直したように、

「さあ、もういいだろう。そろそろ出発しよう」

 と言ってさっさと歩き出してしまう。

「まだ一緒に行くなんて……」

「シサラは糸をちゃんと結んでからついてきてねー」

 さらさら聞く耳を持ってくれない。シサラがおたおたとしている間にも、彼は地下墓地の入り口に近づいていく。それで彼女はますます焦って、視線を毛糸玉とエジカの間で忙しく行ったり来たりさせる。

「ううう……」

 どうしたらいいのかわからない。放っておけば彼はそのまま地下墓地に入っていってしまうだろうし、毛糸玉はシサラが持っているのできっと迷ってしまう。押しつけて逃げ帰ることもできない。だからついて行ってやらねばと思うのに、その意に反して脚が動いてくれなかった。

 やはりまだ怖いのだろう。

 暗闇が万物を漆黒に塗り潰すように、忌み地の迷宮は踏み入る者にその邪悪を及ぼさずにはいられない。肉体を殺ぎ精神を削り魂を砕き、人の在り方そのものを変成させてしまう、そんな怨念をこの地は抱えている。

 それでも彼は迷いなく進む。

 勇敢なようでいて危ういその後ろ姿を、シサラは放っておけなかった。

「ちょっと待って!」

 手近にあった岩塊――おそらく石柱のなれの果て――に乱暴な手つきで糸をぐるぐる巻き付けながら、叫んだ。エジカは一度立ち止まり、しかし振り向くことはせずに、また歩を進めて闇の中へと姿を消した。

「まったく……」

 糸を結び終わるやいなや、弾かれたようにエジカの後を追う。

 外に残された淡色の毛糸が寒風になびき、二人の足音が暗い通路から響いてきていた。





 2/



 地下墓地は灯りに照らされてもなお暗く、足元が辛うじて見えるほどだった。時折ちろちろと小さく揺れる光が、石壁を舞台にして二人の影を大きく踊り立たせる。

 シサラはエジカの背後から、毛糸玉を胸に抱いて影のようについてまわっていた。アーチ状の天井とぼろぼろな石壁に加えて、陰鬱な空気と暗闇が包みこむ地下の空間。足を踏み出すごとに二人分の足音が反響して、燃えさしが燻るみたいに耳に残った。

 糸は結んできたんだから、大丈夫。

 シサラは自分にそう言い聞かせ、足を進める。それでも心の内の不安はしつこくへばりついていて、拭い去ることができない。水を吸った雪のように、重くのしかかってくる。

 地面には崩れた壁の破片や、なにか丸いもの≠ェ転がっているようだったが、それが何なのか怖くて確かめる気にもなれなかったので、エジカの背中を凝視して歩き続けることにした。

 ふと本来の目的を思い出し、力なく猫の名前を呼んでみるが、埃っぽい空気を曖昧に震わすに止まった。

「おーい、ジル、どこだー」

「本当にここにいるのかな……」

「たぶんいるんじゃないかな。それよりシサラ、その毛糸玉は絶対に落とさないでよ。手でしっかりと持っていて」

 『絶対』とか『必ず』とか言われると逆に身体がこわばってしまう。ただでさえ緊張する環境なのに、周囲に目を配りながら“絶対に”必要なことをするとなるとかなり神経をすり減らしそうだった。

「ジルやーい、ミルクやるから出ておいでー」

 傍らのエジカは呑気に猫探しを続行中。信じられない神経の図太さである。もうそっちは彼に任せることにして、シサラは手元と足下に集中することにした。

 幾度となく行き止まりに突き当たったり、角を曲がったりして、どちらが北かまるでわからなからなくなってしまった頃、エジカは突然立ち止まった。ひたすら後を追いかけていたシサラは、わけもわからずぶつかってしまった。

「ど、どうしたの?」

 まさか何か、恐ろしいものでも見てしまったのだろうか。エジカが答えるまでの数秒間、シサラの頭の中ではありとあらゆる想像が独り歩きしていた。

「いや、いたよ。シサラの猫が」

 エジカの指差す先を恐る恐る覗き見ると、灰色の塊がうずくまっていた。一対の金色の瞳がろうそくの光をきらりと反射し、闇の中に浮かび上がっている。それはこちらに気づいたようで、すぐに駆け寄ってきた。

「ジル……よかった。三日も姿を見せないからどうしたのかと心配してたのよ? おなか空いてない?」

心配そうな声をあげながらも、シサラはこの地下墓地に入ってから初めて安堵していた。抱き寄せたジルの身体は温かく気持ちよくて、そのまま身体の力が抜けてしまいそうな気さえする。好きなときに好きなだけなでさせてくれるのが、ジルのいいところだと思った。

「ほら、言ったとおりだったろ?」

 ろうそくの灯りの向こう側で、エジカは得意げに微笑んでいる。確かに、見つけられたのは彼のお陰といえた。

「ありがとう、エジカ」

「べ、別にいいよ。ちょっとした探険もできたし」

「でも本当に……あっ」

 ふと、ブラシのようなジルの毛並みの中に赤黒い部分が見えた。なでてみても他の箇所とは手触りが違う。なんというか、ごわごわしているのだ。

「血が……ついてる」

 舞い上がっていた気持ちは、反動的に不安の中に落ち込んでいった。しかしまだジルのものだと決まったわけではない。急いで灯りを近づけてもらってジルの身体を調べるが、どこにも怪我はないようだった。

「ジルの血じゃない……」

「そのようだね。それにしても、一体どこでつけたんだろう……?」

 エジカも怪訝な表情で、ジルに付着した血を検分していた。眉根をひそめ、腕組みまでして真剣に悩んでいる。どうやら謎の血液は、彼の好奇心の呼び水となってしまったようだ。 

 エジカは素早く辺りを見回し、

「む?」

 何かを見つけたようだ。ひょいひょいと身軽に瓦礫を乗り越え、先ほどまでジルがうずくまっていた場所にしゃがみこんだ。

「ここにも血の跡があるな」

 そう告げた彼の声は、実に落ち着き払ったものだった。

「ざらざらしてるからだいぶ前に乾いたものだろうけど……」

 エジカほどの身のこなしを持たないシサラは、暗がりに足を取られつつようやく傍にたどり着いた。灯りを持っているのに勝手に先へ行くな、と思っても口には出さない。

「ほら見てみなよ、これ。床に積もった埃の上から付着したものだ。ということはまだ最近ってことになるな――しかも向こうに続いているみたいだ」

 彼は燭台を掲げて暗闇の先を示した。『行ってみたいな』と言外に語っているような悪寒がしたので、牽制を放つことにする。

「エジカ」

 シサラはきっぱりとした口調で呼びかけた。

「もう帰ろうよ。ジルは見つかったんだし、こんな場所はもううんざり。余計なことしてると本当に大変なことになっちゃうよ」

「あと少し、確かめるだけだから」

 説得をあっさりと蹴ってエジカは歩き出す。本当に向こう見ずというか、鬼が出ようと蛇が出ようとお構いなしなその性格は危なっかしくて見ていられない。

 もうこうなったら説得して連れ戻すよりも、彼の好奇心を満たしてやるほうが早い。怖いのを我慢するのはかなりの精神力を要するだろうが、この際仕方ない。

 シサラは嫌々ながらも、心を決めてから行動に移るのはすばやかった。追いついて腕を引っ掴んで言ってやるのだ。

「わかった。エジカに付き合ったげる。けどこれが最後だからね。確認したらすぐ帰る。いい?」

「ああ、じゃ、行こうか」

「……ちゃんとわかって言ってるの? なんか返事が軽いような気がしてならないんだけど」

 念には念を。エジカはふむ、とひとつ頷いて、

「僕は嘘をつかないよ。確認したら引き返そう」

 と言った。

 そして彼は臆することなく通路を進んでいき、二人の距離が数歩分空いたところでぴたっと立ち止まり、そのまま動かなくなった。





 3/



 それを見つけたとき、エジカの頭の中が真っ白になった。

 唾液は引き潮のごとく消え失せ、喉が張り付いて声を出すことができなくなる。それ以前に彼は、悲鳴を上げるという行為すら忘れていた。

“これは、何だ……?”

 幻かと最初は思った。その場所に残留した死者の思念が生者の視覚を狂わせ、ありもしない映像を見せるのはよくあることとは言わないが、現象としては確かに起こり得る。それを純化させた幻影法と呼ばれる術を扱う者もいるくらいだ。

 だが、見れば見るほどその映像は鮮明に瞳に焼き付いてくる。幻と呼ぶには描写があまりに細部まで行き渡りすぎていて、『もしかしたらこれは本物では』と当初の思いに疑念を生じさせる。

 そう感じるからこそかえって眼を逸らせなかった。

“そうだ、ここは墓地。なにが出たって少しも不思議じゃないさ……”

 心を落ち着けようと強がってみても、まったく効果がない。瞬くことを忘れた眼は乾燥し、充血をはじめている。いつの間にか全身が震えていた。気を抜けば灯火を取り落としてしまいそうだった。

「ねえ、どうしたの?」

 びくん、とエジカの身体は反応した。おずおずとだが彼女はこちらに近づいてこようとしている。

“……見せちゃいけない”

 そう思った瞬間、身体が動いて――

 気づいたときには、シサラの手を引いて走り出していた。

「――――は、は、ぜい、はぁ、はぁ――――」

 息が荒い。どくどくと脈打つ心臓が悲鳴をあげている。

 暗闇の通路をほとんど全力疾走で、

 足下に転がる障害物を蹴飛ばしながら、

 二人は転がるように走っていた。

「――したの、ねえ――――ってば――」

 シサラが耳元で喚いていたが、膜でもかけてあるみたいに頭の中まで入ってこない。

「あっ」

 彼女が段差に足を取られても、エジカは速度が落ちるのを嫌って強引に引っぱって駆け続ける。足音が二人を駆り立てるように反響し、ろうそくの火は心細げに揺れている。

 熱い。身体が燃えるように熱い。

 喉は灼け、頭はぐちゃぐちゃに混乱している。

“何だったんだ、一体――”

眼に焼き付いた映像が何度も反芻され、そのたびに吐き気がしてくる。ともすれば胃液と一緒に朝食を戻してしまいそう。

 それくらいあれは強烈だった。

 夢にまで出てきそうな、おぞましい光景だった。

“忘れたい……もう全部忘れてしまいたい……”

 なにものかに追われるように、二人は地下墓地から抜け出した。

 灰色の雲が地上を圧迫するように天を覆い、大地は死んだような単一色。冷たい風が悪意を持ったように二人に吹きつけ、走ったことで上昇した体温を容赦なく奪ってゆく。

「ぜい、ぜい、はあ、は、あ――――」

 シサラは膝に手をつき、息を整えている。足元に下りたジルはつんとした表情で、その様子を眺めている。

 エジカはどうしようもなく家のベッドが恋しくなった。

“もう何も考えたくない。早く帰って眠らないと……夢から覚めないと……”





 4/



「行っちゃった……」

 シサラは枯れ草の上にへたりこんで、町のほうへふらふらと歩いていくエジカの背中を呆然と見送っていた。

 呼吸はだいぶ楽になり、しびれていた右手首の感覚が戻りつつあった。いつのまにやら足元に下りていたジルは、呑気にあくびをしている。

 空は曇っていて薄暗いが、あの通路に比べればここは確かに現世という気がしてくる。無事に帰ってこられたわけだから、本来ならば安心していいはずなのに――

 なのに、シサラの困惑はいや増すばかりだった。

 エジカは何を見て、何を感じたのだろう。不安と憂鬱が胸に渦巻き、粘性を持った澱みを生じさせる。

 もう一度、空虚な図形めいた入り口を振り返る。崩れた正方形のそれは、闇を溜め込む枡。少しの振動で影は外にこぼれ出てしまう。

 きっと彼はそれに当てられたんだ。

 それで、怖くなったのだ。

 ジルが意味ありげに金色の視線を投げかけていた。そう思うのは飼い主の盲目だろうか。抱え上げてゆっくりとなでてやると、少しだけ気分が落ち着いた。

 あのときのことを思い出してみる。

 シサラが覚えているのは、戻ってきたエジカが彼女の手を取ってすぐさま走り出したこと。説明の言葉ひとつもなく、暴風のように彼女を巻き上げてさらっていったこと。シサラ自身は毛糸玉とジルを落とさないよう、どちらも必死で抱きかかえていたこと。

 彼が何を見たのかはわからないし、かといって一緒に見てやればよかったと思うわけでもない。

 後悔することがあるとすれば、やはりジルを見つけた時点で引き返さなかったことだろう。もう少し強い態度に出られていたら、あるいは結果は違ったのかもしれない。

 何にせよエジカのことが心配だった。おそらく彼は自分の家に戻っているだろうから、まずは行って様子を確かめたい。

 それくらいしかできることはないと思えたし、事実その通りでもあった。



 *



 予想通りエジカは家に戻っていたが、その事実はシサラを安堵させるに至らなかった。ベッドに突っ伏し、うわごとを口走るような状態を普通とは呼ばない。

 おずおずと声をかける。

「ちょっとエジカ……?」

 エジカは答えない。それどころかシサラの存在に気づいているかすら怪しい。横顔は普段の彼らしからぬ憔悴ぶりだった。

「エジカ!」

 今度は思い切って肩をつかんでこちらに顔を向かせてみた。彼は何度か眼をしばたかせ、ようやくシサラの顔に焦点を結んだ。

「シ、サラ……?」

 蚊の鳴くような声だった。彼は何事か言葉にしようとして口をぱくぱく動かすが、うまくいかず再び視線を落としてしまう。

「エジカ、エジカ本当に大丈夫? お水汲んでこようか? それともお医者さんを呼ぶ? もう……一体どうしたのよ?」

「……見たんだ」

 生気の感じられない声でエジカは答えた。やはりと思いつつも先を促す。

「見たって、何を?」

 言ってしまってから、もしかして尋ねるべきではなかったのかもと気づく。思い出すのも苦痛なことならなおさら――

「死体だ」

「えっ……」

「それも他殺死体だ。頭からたくさん血を流していて、髪がぼさぼさで髭が生えてた。眼はかっと見開かれていて、瞳の色はわからなかったけどひからびてなかった。死んでからまだそう長く経ってない。腐臭よりも血の臭いのほうが強かったからね……もっとも、あそこは気温が低いから断言はできないけど」

 エジカは滔々と抑揚をつけずに語った。感情の欠落したような語り口はまるで壁の向こう側からしゃべっているようで、その内容の信じがたさも相まって意味を飲み込むのに時間がかかった。

「なに……それ」

「それだけじゃないんだ、シサラ。僕は死体の顔をこの眼ではっきりと見た。そうしたら……よく知っている顔だった。君も知っている人だった」

 はっと息を呑む。

 ああ、それで彼は――

「エジカ…………」

 シサラはうつむいているエジカの顔をのぞきこんで、思うままに言葉を紡ぐ。

「いいの、もう話さないでエジカ。もう十分よ、忘れましょう。全部幻だったの、それでおしまい」

 そうだ、もう終わりにしよう。幽霊を見てああ怖かったねと言いあって、元の日常に戻らないと。決して幽霊の正体を探ろうとしてはいけない。だというのに――

「けどもしかしたら本物の死体だったかもしれない。だから確かめに行かないと…………きちんと埋葬もされずに放っておかれたら、今度こそ本当に幽霊になってしまう……」

「なったらどうだって言うの? エジカを憑き殺しに町までやってくるわけ? そんなことあるわけないじゃない。それに確かめに行くのは大人の仕事。ちゃんと話せば……」

「話したところで信じてもらえないだろう。地下墓地に入ったことも言わなきゃならないし、まだ確証はないんだからあまりいい考えだとは思えない」

 エジカは疲れ切ったように頭を振って否定した。

「…………そう」

 何と言えば思いとどまらせることができるだろうか。

 想いを言葉にすることは簡単だったが、それが彼に伝わるかどうかはまったく別の問題だった。

 彼女は立ち上がり、ベッド脇から窓際へと移動する。ぎし、ぎしと木張りの床が音を立て、第一発見者のジルはふにゃあと鳴く。今はそれすらも慰めになった。

 部屋に満ちた沈黙が、シサラの無力さを責めているみたいで辛かったから。

「…………」

「…………」

 二人とも無言のまま時間だけが過ぎていく。

 かち、こち、かち、こち。

 居間にある時計の針の音が聞こえる。そう広くはない家だから、どんな音でも聞こえてしまいそうだ。

 そう、たとえば風が窓を打つ音。何かがドアにぶつかる音。ノブに手をかけてぎいと開ける音。誰かの足音、それはだんだんと近づいてきて――

「誰かいるのか、エジカ」

 不意に部屋の入り口に見覚えのある人が現れた。埃っぽい旅装に身を包んだ壮年の男。毛糸帽の下からぼさぼさの髪が伸びていて、口まわりには髭が生えている。

 若い頃はたいそう女性に人気があったであろう微笑みを浮かべるその人は、エジカの父にして煉金法研究の第一人者。

 名をアルビレオ・グスタフといった。

 旅の装いをしているのは、僻地にいる他の研究者を訪ねてきたからだったなと、シサラは数日前の記憶を反芻する。

「ふむ、シサラといったね。ゆっくりしていきなさい」

 アルビレオは落ち着いた声で言った。彼の持つ雰囲気を前にすると、人は自然と丁重さを引き出される。また、そうでなくともシサラを含む町の住人達は彼に一目置いていた。サリズエにおける名士の一人と呼んで差し支えないだろう。別の町ではすでに一財産を築いているという噂だが、この家の様子を見る限りそんな風には見えない。

「お久しぶりです、おじさま。お言葉に甘えることにします」

「ああ、そうするといい。エジカは昼寝でもしているのか?」

 父の視線が息子に向けられる。エジカは聞こえているはずなのにそれを無視して、ベッドにうつぶせになったまま動かない。

「……しばらく眼を離しているうちにとんでもない無礼者になったようだな」

 アルビレオは呆れたようにため息をついた。

「いえ……ただ少し疲れてしまっただけだと思います」

「どこかに行って帰ってきたところかね?」

「はい、えっと……」

 次に場所を尋ねられたら何と答えればいいだろうと思うと、語尾が不自然に濁ってしまう。しかし相手はそんなことを気にしていないようで、

「そうか、まあいい。起きるまで待たなくてもいい。寝ている間に帰られても文句は言えないだろう」

 アルビレオはそう言い残し、ぱたんと扉を閉めて出て行った。

 その姿を見送りながら、パパとはずいぶんと違う人だなとシサラは思った。

 もし状況が逆だったら――つまりシサラの部屋にエジカが来ていたとしたら、パパはきっと怒り狂っただろう。

 その厳しさを父親らしいと思う反面、アルビレオの鷹揚さや寛容さもまたそう思うのだった。人それぞれに定義の異なる曖昧な言葉なのだろう。

 そんなことを考えていると、

「シサラ」

 小声でエジカが呼びかけてきた。ずっと動かないものだから、本当に寝てるんだと思っていた。

「なに?」

 問い返すと、彼はちょいちょい、と手招き。しゃがんで顔を近づけると、肩口をつかまれてさらに引き寄せられた。当然シサラは困惑する。

「ちょっ、エジカ、」

「静かにしろ」

 彼の眼差しは真剣で、冗談で言っているのではないことはすぐにわかった。シサラはやや落ち着かない素振りを見せながらも、エジカが話しやすいように片耳を向ける。

「いいかい」

 彼は囁き声で言った。

「やっぱり僕は確かめに行かなきゃならない」

「やめてよ……まだそんなこと言ってるの?」

 シサラは懇願するように言うが、エジカは聞く耳を持たない。

「何度でも言うさ。シサラには頼みがあるんだ。もし僕が明日の朝になっても帰ってこなかったら、大人たちに知らせてほしい。いいか、明日の朝だ」

 どうしてそんなことを言うのだろうと、シサラは悲しくなった。これで本当にいなくなってしまったら、自分はどうすればいいのだろう?

「エジカ、一人で行くつもり?」

「…………そうだ」

「どうして?」

「知りたいかい?」

 突き放すような口調で言うと彼は口を閉ざし、じっと部屋の外をうかがった。この家には二人以外にはアルビレオしかいないので、警戒の相手はその人ということになるが……。

「それはね」

 エジカはそれまでに見せたことのない完璧な無表情さで言った。

「死体が、父さんだったからさ」





 5/



 自分の意志で行動しているはずなのに、どうして自分はこんなことをしているのだろうと思うことがある。シサラの場合、今の状況がまさにそうだった。

 かつん、かつんと足音が響いている。

 シサラは昼間に訪れた地下墓地に、再び足を踏み入れていた。

 外はすでに夜の帳が落ちているが、どのみち地下は暗いので灯りさえしっかりとしたものなら問題にならない。むしろ気温の低下のほうが切実な問題であった。体感としては氷点下近くまで下がっているようで、染みいるような冷え込みに耐えねばならない。

「うう……寒い」

 なぜこんな夜更けにこんな場所に来ているのかというと、単純に言ってエジカの後を追ってきたからである。ベッドに入ってしばらくしても眠れなかったので、自分の部屋の窓から暗くなった通りを眺めていると、月明かりに照らされた人影が。よく見るとそれは防寒具に身を固めたエジカで、町の外に向かっているようだった。

 それを見たシサラは確信した。彼は昼間言っていた通り、死体を確かめに行くのだと。

 どうせ何も見つけられずにとぼとぼ帰ってくるだけだろうと、最初は思った。だが彼に頼まれた内容を思い出す。

『もし僕が明日の朝になっても帰ってこなかったら、大人たちに知らせてほしい』

 それはつまり、戻ってこない可能性もあるということではないか。

 どういう場合にそのようなことが起こるだろう。

 道に迷う?

 寒さで凍え死ぬ?

 それとも――――父親と同じ末路を辿る?

 考えただけでも怖気がした。そしてろくに考えもせずに自分も上着を羽織って毛糸帽をかぶって手袋をして家を飛び出してきてしまい、今に至って少し後悔している次第である。しかし後戻りするとなると今度は彼のことが心配で、結局どうしようと考えながら足を進めている。

 シサラは昼間渡された毛糸玉を握りしめ、もう片方の手で家から持ちだしたランプを掲げて辺りを観察する。足下には手にしたものと同じ色の毛糸が引いてある。おそらく先に入ったエジカがシサラにさせたのと同じ事をしているのだろう。

 それは彼の足跡を示す道しるべにして、帰路のための布石、決して切ってはいけない命綱であった。

 その糸を頼りに、シサラは進んでいく。

 どれくらいの距離を歩いただろう。エジカと一緒に来たときは彼の後ろにくっついてまわっていただけだったので、実際どういう経路を通ったのかはわからない。結構奥まで来たと思うのだけれど……。

「名前、呼んでみようかな」

 それもいいかもしれない。そもそも尾行しているわけではないのだから、エジカに気づかれても何の問題もないはずだ。怒られる可能性はあるが。

 じゃあせーので呼ぼう。息を吸って、せーのっ、

「ここで何をしている?」

「――――――――――――――!!」

 いきなり声をかけられてそれは悲鳴に変わった。その人物は慌てず騒がずシサラの口をふさいで、顔を近づけて確認してくる。

「シサラか……こんな夜更けに、一体何を?」

 背後から現れた人物はアルビレオ・グスタフだった。エジカによると、死体になってこの辺りに転がっているはずの人。照明として杖の先に光を灯しているが、彼もまた息子の後を追ってきたのだろうか。それは言ってみれば親としての責任を果たしているということになる。

「アルビレオさん……びっくりした」

「びっくりしたのはこっちだ。迷子になったらどうするつもりだったのかね? それに立ち入りは禁止されているはずだ……いや禁止とは少し違うか……とにかくこんなところで凍え死んだりしたら、確実に行方不明扱いにされるよ。親御さんを悲しませないためにも、早くここから出よう」

 もっと怒られるかと思っていたが、彼自身も忌み地であるこの場所に入ってきているので諭すような口調だった。

 ようやく衝撃から立ち直ったシサラは、この人なら信用できると思い、エジカを追ってここまで来た経緯を説明した。昼間に地下墓地に入ったことも、そこでアルビレオの死体を見つけたとエジカが話していたことも、すべて包み隠さずに。

 話を聞き終えたアルビレオは神妙な面持ちで頷いた。

「大丈夫、安心しなさい、シサラ。昔から人は暗闇の中に恐怖を見いだしてきたものだ。それにここは墓場でもある。そういう要素がエジカの想像力に働きかけて、ありもしない幻を見せたんだろう。だが所詮は幻に過ぎない。現に私はこうして生きた肉体を持った人間で、幽霊でもなんでもないだろう?」

 だから心配することはない、と彼は付け加えた。

 その言葉にシサラは心底ほっとしていた。地下墓地には最初から死体なんてなくて、全部エジカの見間違いであって欲しかった。それをその通りに同意してくれる大人がいたのだ。あとはエジカを見つけて連れ戻すことができれば、もう言うことなしなのだが。

「うん……ごめんなさい、アルビレオさん。勝手にこんなところまで来て迷惑かけて……」

「なに、謝るならあいつのほうが先だ。早く見つけて連れ帰るとしよう。その辺りに足跡か何か残っていないかね?」

「はい、えっと……糸があったと思うんですけど」

 シサラは床に引かれた糸をつまんで示した。

「入り口からずっと引いてきて、帰るときに巻き取っていけば迷わないんですよね」

「なるほど……あいつの考えか? だとしたら知恵をつけたものだな……じゃあ行こうか」

 アルビレオが先導し、シサラは少し離れて自分の糸を垂らしながら付き従った。ゆっくりと歩いているはずなのに彼女は十秒に一度の割合で躓いたり、ランプや毛糸玉を取り落としそうになっていた。

 いくつか角を曲がったとき、通路の先に小さな光が見えた。ゆらゆらと揺れるそれはろうそくの火だったので、その近くにエジカはいるはずだった。アルビレオもそれを確信しているらしく、エジカの名を呼びながら進んでいく。

「エジカ、いるんだろう、返事をしないか」

 呼びかけは暗い冥い通路に反響し、遠くまで伝わっていく。

 彼にはきっと聞こえているはずだ。

 なのに出てこない。

 どうしたんだろう。

 寒さに意識を失って倒れているのだろうか。

 それとも何か別の考えがあるのだろうか。

「ふむ……おかしいな。返事くらいあってもいいはずなんだが……」

 アルビレオが呟いている。彼はもうろうそくのすぐそばまで来ている。

 かつん、かつんと足音が響いている。

 かつん、かつん、

              ――かつん、かつん、

 いつの間にか、

          ――かつん、かつん、かつん、

 足音がひとつ、

          ――かつん、かつん、かつん、

 増えていた。



 

6/



 振り向けない。

 シサラは足音の主を識っている。先を行く二人の歩調に同期させ、なおかつ音を潜めるような歩き方をしているため、アルビレオには気づかれていない。

 この時に至ってもシサラは彼が何をしようとしているのかわかっていなかった。

 わかっていなかったというより、考えようとしていなかったとしたほうが適切だろう。

 それを想像するためにシサラはまず現状を受け入れなければならず、

 受け入れたとして、それを想像させるようなエジカではなかったはずだ。

 だけどもし、眼を背けずに最悪の可能性を考えるならば。

 彼のしようとしていることは、断じて許していいものではない。

 絶対に、してはいけないことだ。

 それと同時に、決してしてほしくないことだ。

 だから止めなければならない。

 今それができるのは、自分だけなのだから。

 しかし後ろから響いてくるその足音が告げていたのはただ一言。

『黙って見ていろ』と。

 果たして信じていいのだろうか、彼のことを。

 希望的観測にすぎないとしても、最悪以外の可能性だってあるかもしれない。いや、あってほしい。そう思ってしまう。

 その時、彼女は…………


1.止めなかった。

2.止めた。



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